自由と責任というお題を直ぐいう奴は胡散臭い

なぜなら、それを好んで使う奴は、その言葉が何を指しているのかを理解していないから。まず自由と責任を日本語でいう人は、多分意味が分かっていない。そして都合よく理解している。当然のことだが日本人が今使っている自由という概念は近代に入って適当に漢字を当てたもので、本質的には日本には存在しなかった概念を導入したもの。したがって海外で言われている内容が本来の使いかただが、では「自由と責任」は元はどいうものか。作家のバーナード・ショーは次のように述べる。「自由とは責任のことだ」。大事な事は、ここでいう自由とは free ではないという点だ。そう、直ぐ自由っていうと free を想定してその意味を当てはめてしまうけど。元の文面はこうなっている。

Liberty means responsibility

Free ではなく Liberty が自由と責任のフレーズで使われる自由なのだ。どちらも日本語では「自由」と約しているが英語は二つの単語で分かれているわけで、当然意味が違う。日本人でもリバティだとフリーとは全然違うイメージを抱くのではないか。自由の女神も、Free ではない。 Statue of Liberty だ。自由と責任というフレーズは自由という言葉の誤訳というか翻訳の曖昧な所を突いた日本人の酷い誤解だと思う。更に言葉続いており

「自由とは責任のことだ。だから人は自由を恐れる」

と。選択に伴う失敗した時の責任があるので人から指示されてる方が楽で自分で選ぶのは恐ろしい事なのだと、そしてだから自由から逃げてしまうという話なのだ。

この話に限らず、小難しい言葉で出てくる自由はほぼリバティであり、それは政治的なものだといわざるを得ない。その辺の会社員や学生が上司や先生から自由とは責任だとか言われる言葉ではない。先生は意味を理解して DQN に語りかけていても DQN は誤解した挙句、大人になって誤用しているというか。 Liberty とは奴隷解放などの時に使われる自由で、恣意的な権力からの自由や、政治的独立、選択の自由などの方を意味していて、投票権もない未成年者や選択権もない社畜に対して使うような言葉ではない。むしろ意味が正反対だ。選択が自由ならば、その選択権を持つという意味で責任者でもありえる。この場合の責任ってのは義務のように押し付けられるものではなく、むしろ自ら選ぶ権利にも近い。しかし自ら選ぶからその結果が自分に責任としてのしかかる。下っ端が持つ選択枝や決定権がほとんどない時、同時にその責任も下っ端にはほとんどない。その場合には自由と責任なんて対は成立しない。自分で選んでないから責任が取れないのだ。「自由とは責任の事」が成立するのは選択する権利を持てる人が責任者であるように、責任が伴うわけだ。だから日本語で言ったら、「責任者とその責任」という感じの意味合い方がむしろ元の意味に近い。