矢沢栄吉の詭弁

ついでにNHKでみた矢沢栄吉のインタビューの感想も何となく書いてみる。

■綺麗事
 言ってる事は至極正論に思う。ただし、あれを矢沢栄吉がいってもはたしていいのかという欺瞞のようなものを感じる。じゃあ矢沢栄吉は自分が言うような全うな人生を歩んできたのか?自分でも言っているが家庭人としてはよくなかったというように、色んなものを犠牲にして進んできている。一方であの正論だ。恐らく矢沢栄吉の人生はそんな正論ではなく、もっと波乱万丈で突拍子もない部分が自分が言うようにあったのだろう。成り上がった後だからこそ言える正論は綺麗なので私は個人的には好きだけど、その正論じゃ多分生きてけないよねとも思う。そういう現実を隠し、ずるい部分を隠して語られる美しい話はあまり価値がないと思う.何か一種の新興宗教的なものを感じる。世の中にはもっとずるくて陰湿な部分を何とかする方法論みたいなものがある程度必要なのは誰も否定できないはずだ。自覚があるかないかは別にして、責任を人に押し付けたり、綺麗毎で問題を隠してお金を儲けて生きてきている人の方が多いと思う。
 同じ正論的な考えで言えば、アイドルやカリスマとして思想的な部分で、信者的な人たちから集金しているという本人が作り上げた矢沢栄吉という職業を見ると、本当に生きる為の努力をしているのはなんなのか疑問に思わざるを得ないのだ。

■現実に求められる結果
 英語の話題を提起した時に、大事なのは通じるという心というの様な事を言っていた。だけど私はこう思う。じゃあ、何でアメリカで成功できなかったのかと。結局アメリカで通用するには英語も必要だし、魂だけじゃダメなんじゃないのと思わざるを得ない。仮に通じていても、通じるだけでは評価されないともいえる。1個人としての応援メッセージならいいけど、矢沢栄吉という一部からはカリスマ性を持って見られている人なら、あなたがブレイクスルーした時の体験を方ってほしいのではないかと思う。アメリカではブレイクスルーしてない。

 少し前にノーベル賞を取った日本人の人が言ってた話で、上手く行かないのは努力がたりないという話でオーディエンスの質問に答えていた。これは割りと納得できた。なぜならその人は、最後の所で自分がここまでこれたのは何かといえば、運だと言い切っていたからだ。偶然が生む日本人的な感覚の縁のようなものを話していたからだ。努力を前提とした運であって、努力したから出来るとは簡単に言い切らない戦前の人の芯を感じた。