はてブにコメントを貰っていたので、ゲームの快感とは何ぞやについて

4Gamer.net ― 【島国大和】ゲームの快感とは何ぞや
http://www.4gamer.net/games/000/G000000/20100430078/

 4gamerは日本のWebのゲームニュースサイトでは一番良いと思っているが、記者の独自視点で書かれるコラム的な話にはちょくちょく破綻した話がある(まあ、そこが4gamerのいい所なんだけど)。その中でもちょっと前から偶に見てる島国氏の考察が酷いなと思ったのではてブに書いたら、本人っぽい人が反応してくれてたんで、あえて補足してみようかと思った所。
 まず、流れとか。上の記事に対して自分がはてブでこう言うことを書いた。"相変わらずこのライターは酷い。TV以外のゲームでは、ほとんど能力は劇的には拡大しない。カード、将棋、スポーツ、素のまま自分の能力で競い合うゲームしか残っていない。ごっこ遊びはほとんど幼児期で絶滅する。"それに対して

>「ビデオゲーム」と書いてあるのに読んで無い人が。

 というレスを返してもらっていた。4gamerの記事書いている人らしきコメだったので中々ない折角の機会。いや、愚痴でも書いてみるものだと今回は思った。意外と読んでもらえたりする。早速補足的なものへ。まず、記事中の"ビデオゲームの快感は,能力の拡大だと思います。" これに対して直ぐ思う事は、能力の拡大しないビデオゲームが沢山あると言う点。例えばリアルのゲームをビデオゲームにしただけのものとかなら分りやすいが、単純には能力の拡大はしない。将棋の対戦をPCでやってもそれは単に盤面を画面に入れたに過ぎない。従って、ゲームの快感は能力の拡大には限られない。まず、自分に限らずかなりの人が、こういう論法で記事を読んでいるだろうと思う。これで、結構な人が?と一瞬思いつつ読んでいると思う。ただし、この段階ではまだただの違和感に過ぎない。
 次に、この記事は将来のゲーム像についての問いかけを含めている。枯れたゲームとの比較で、擬似的に能力を拡大するか、プレイヤーの能力を利用するかと言う話だ。そこで可能性を考える時、重要になるのは既に行き着いているゲームの解釈だ。一般的なゲームという範疇ではむしろ能力は劇的には拡大せず一定の所で停滞して能力は拡大しないか、極端にデフォロメされそれが能力の拡大とは分らないゲームが普通である。既に年月に耐えてきたリアルなゲームの中には、単純なごっこ遊びで生き残っている例があまりない。それを補足するために、"ごっこ遊びは成熟したゲームには残らない"という意図を書いた。書ききれて居ないが、それが結果的にどういう意味になるかというのを次に。
 記事の前後をあわせて見た時、例示として示すだけにしては"能力拡大論"があまりに強過ぎなので、恐らく島国氏の思考の構図と考えて記事を読んだ。遊んでる側として見ると、定義されている"能力の拡大"(以降分りにくいので"疑似的な能力の拡大"とする)はゲームにおいてそんなに大事な事ではないと思える。どこかで聞いたことがある"Lv上げが面白くない"、"作業ゲー、クリックゲー"、自分はこういう批判的な感想をいう極一般的なプレイヤーだと思う。あなたは勇者ですって言われる事が今時のユーザーにどれだけ訴えかける力があるだろうか。全然訴える力がないと思う。飽きてる人を対象にプレイヤーを魔王にしてみたり、盗賊にしてみたり、司令官にしてみたり、探偵にしてみたりしてるけど、別にもう驚かない。擬似的に能力を拡大する事に慣れきっている。類似のジャンルで枯れたものでは、そこに凄く力が入っている。例えば、小説や映画なんかでは、その人を説得力のある勇者に仕立て上げるのにどれだけ苦労しているか分らない状態。それでも説得力がない事が多い。それを、今のゲームはプレイヤーが納得しないからって、今度は"あなたは勇者です"っていう文句を100万回繰り返しているような現状。全く説得力がないし、リアルじゃない。結局疑似的な能力の拡大というのは簡単過ぎては実感がないし、ただ難易度を難しくすれば実感が得られるわけでもない。「人間に錯覚させるのはそんなに簡単じゃない」この問題が凄く大きい。つまり、問題は実際になんらかしらのプレイヤーの能力も拡大させないと実感が得られにくいという点で、記事の話題(疑似能力の拡大vsプレイヤーの能力に依存する)は2つの対立軸として二律背反ではなく、むしろ二つの概念は極めて近い位置にあると感じてる人のほうが多いと思う。だから糞みたいな能力拡大を設定しているゲームにたいして"作業ゲー"と皆が口をそろえる。
 あえて、そういう問題を考えるとすればビデオゲームの特性というのを考慮した場合の問題点になるだろう。それはどういうことかというと、例えば小説や映画でファンタジー世界を描いた時そのストーリーと映像に現実味があればある程度の説得力を感じてもらえる。一方のゲームはどうかというと別問題があって、それはゲームがインタラクティブだという点にある。インタラクティブであるが故に、ストーリーと自分の操作に隔たりを感じてしまうと、ストーリ自体に違和感を感じてしまう。例えば、自分が何も成し遂げた感じがしないのに、いきなり英雄になってしまったらどうか?如何にストーリーが素晴らしくても難易度設定という問題で、そんなにあっさり英雄になったらおかしいのではないかという感覚が沸いてしまう。これがゲームがインタラクティブであるが故に起きる問題だ。
 黄昏る問題についても、問題の認識がずれてはいないだろうか?黄昏が問題なのは誰もが思っている事だけど、プレイヤー能力依存のゲームが黄昏ているのは、ゲームの問題ではなく現実の仕組みの問題だと思う。例えば完全に枯れている将棋はプレー人口が少ないだろうか?完全に枯れているサッカーや野球というゲームは黄昏ているだろうか?黄昏るというのはゲームの問題ではなく、その周りの仕組みに依存していると思う。例えば格ゲーは黄昏ている、しかし、ニコニコではウメハラ動画が人気だ。恐らくウメハラの影響力だけで相当なプレイヤーを増やしていると思う。ゲーム以外の分野ではより顕著だけど、欧米の強さというのは、あの規格製造能力だとおもう。結構沢山の分野にわたって日本はバラバラに個々に開発して、結局規格は欧米主導で決められてしまっていたりするパターン。まあ、はてブの自分のコメは確かに突っ込みどおり、多少飛躍している。文字数が少ないので推測してもらわないと意図が読み取れない文面になっていたのは間違いないが、口に出さないだけで今のサイレントマジョリティは自分の感想に近いと思う。