xyzzyの布教活動には

 xyzzyを布教するときに機能説明に重点を置きすぎると、使ってもらっても挫折してしまうんじゃないかとか自分は思ってる。xyzzyを初めから多機能にカスタマイズしすぎては失敗するというか、体得の難易度が上がりすぎて多分使いこなせず、機能は多少少なくても、多少不便はあっても、直ぐに思いいつく機能が簡単に使えるEmとか秀丸の方が導入と実用と体得の敷居が低いから、比較してxyzzyの魅力が半減してしまうと思う。
 unix系エディタは、むしろその体得したlispキーバインドにこそ価値があって、機能自体が使えることはあくまでplusアルファの部分に思えるから。使い手の潜在能力にエディタの能力が依存しているエディタでは、機能がメインでそれを人間が操作じゃなくて、人間のポテンシャルがメインで機能が補助なんだと思う。
 だから、哲学とか魅力みたいなもので取り付かれないと逆に言うと使い難いだけに、そこが宗教じみてる理由だとも思える。その辺は結構使い手を気持ち悪くさせてる要因だとも思えるけど、実際は機能などの合理的な側面で恩恵が得られるので実は逆に宗教性は少なくなるという不思議構造。そういうのを色々加味した意味で、布教にはこのページとかを進めている。
Windows版viエディタ入門 - faireal.net
http://deztec.jp/x/05/faireal/faireal-4-11-index.html#d11222
基礎からわかる Emacs - faireal.net
http://deztec.jp/x/05/faireal/faireal-4-16-index.html#d20113

 ぶっちゃけviの布教ページだったりするが、絡みでemacsxyzzyも出てくる。結果的にviを選択しても多分見た人に役に立つはずだし、多分初めはviを選択するんじゃないだろうか。実は自分も初めはviに惹かれていたから。結果的にxyzzyを使ってるが、viに惹かれていた過程も無駄ではなくてむしろ必然に思えてみたり。viに惹かれていたからこそemacsの凄さも分かるようになるし、emacsの凄さに気づくとxyzzyがまた魅力的に見えたりもする。
 これ書いてる人が結果的にxyzzyUnix系日本語エディタで、Windowsで使える中では良いと書いているような過程を辿ってるけど、自分も良く似たような感じを持ってる。

 "兎に角やってみる"が出来る人には余計なお世話かもしれないけど、そうじゃない人には感じて貰うほうが挫折しないような気がする。そういえば誰かも言ってる。
"Don't think!! Feel!"
それは違(ry